加賀百万石の地に受け継がれる茶道宗和流

ごあいさつ

 茶道宗和流は、金森宗和(かなもり そうわ)が創始した流儀で、古都金沢に加賀藩三代前田利常公の時代に伝えられました。以来この地にて連綿と受け継がれてきた加賀ゆかりの茶の湯です。
 宗和流の茶風は公家の「雅び」と武家の枯淡とをあわせもっており洗練されたお点前や宗和好みの道具などを通してその茶風を知ることができます。宗和流が長い間継承されてきた古都金沢は、茶の湯文化を大切に守り育んできたまちです。これから茶の湯を学びたい方にとってもより身近に茶室や茶道具の工芸、和菓子や料理などの伝統文化に出会うことができます。また茶の湯の「心」や自然観、美意識などいろいろなこともより親しみをもって触れることができます。
 私たち宗和会もここ金沢でこの環境の下で育まれ宗和流の継承の中心的役割を長年にわたり担ってまいりました。これからも茶会などを通して他流儀の方々と共に茶の湯文化発展に努めて参りたいと思います。

茶道宗和流宗和会   
理事長 髙川 宗順

茶道宗和流宗和会のご案内

 茶道宗和流宗和会では、お稽古やお茶会を通して茶道の楽しみや知識を広げていくことを大切にしております。和やかな雰囲気の中、お点前や作法が自然に身についてまいります。
 流祖金森宗和公は堂上公家の「みやび」と武家の枯淡、そして「わび さび」とを生かし独自の茶風を築きました。宗和公の美意識の下、茶道具や掛軸などの歴史を学ぶ機会も多く、自然にお茶の心やお作法、茶道具の見方、扱い方なども学ぶことができます。
 宗和流は帛紗を右腰に、茶を点てる前に茶巾を改めるなど丁寧なお点前、そして洗練工夫された柄杓の構えなどにその独自性があります。
 「一期一会」を大切に一服のお茶を無心で点てることに集中する、その時こそ禅の心にもつながるひと時となります。
 私たち茶道宗和流宗和会は「共に学び、共に楽しむ伝統文化」を基に茶道宗和流を一人でも多くの方に知っていただき、その継承に努めてまいります。
 沢山の情報で溢れかえる現代、心静かに茶釜の湯のたぎる音、松風を聴きながら、一服のお茶で心を通い合わすことができれば幸いです。

茶道宗和流宗和会のお稽古参加ご希望の方へ

初心者の方にも、一から懇切丁寧にご指導いたします。
カジュアルな服装で、お気軽にご参加ください。
お稽古を楽しみながら お茶を一服いかがですか?

宗和流の歴史

流祖 金森宗和(かなもりそうわ)について

 金森宗和は天正12年(1584年)飛騨高山領主 金森可重(ありしげ)の長男として出生。名は重近(しげちか)、千利休の長男 道安より茶道を学んだ父から茶道を習得し、京に出て、大徳寺で傳叟紹印(でんそうじょういん)に参禅し、剃髪して「宗和」と号し、禁中の茶事の御用を勤めました。
 宗和の優美で上品な茶風は、公家社会、武家社会、有力町人など多彩な人々と交流するなかで各層に支持され広まっていきました。
 京焼の名工 野々村仁清に御室焼きを指導して、その清麗な作品を使用し、堂上公家の「みやび」を一層優雅に、武家の枯淡と道安の「わび さび」とを表裏一体に洗練工夫し、独自の茶の湯を確立しました。その宗和独自の美意識は、寛永文化の一端を担いました。
 京都 鹿苑寺(金閣寺)の「夕佳亭」、大徳寺真珠庵の「庭玉軒」、興福寺慈眼院の「六窓庵」(現在 東京国立博物館構内)、などは代表的な宗和好みの茶室とされています。金森宗和は明暦二年(1656年)12月16日73歳でその生涯を閉じました。菩提寺は京都 天寧寺。

加賀藩と宗和流のつながり

 寛永二年(1625年)金森宗和の長男七之助方氏(しちのすけまさうじ)が、三代藩主前田利常公への仕官が契機となり、宗和流は加賀藩に伝承されました。七之助は藩務のかたわら、藩士に宗和流の茶の湯を指導し広めていきました。父宗和は、京より後見し七之助を援助しました。
 その後、加賀藩の重臣 多賀直昌(別名 中原宗乗)が宗和流の真髄を藩士に伝え、『拾玉抄』七巻を編纂するなど宗和流の発展普及に努めました。その功績は宗和流の中興の祖ともいわれています。

宗和流の系譜と宗和会継承者

流祖 金森重近(宗 和)
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金森方氏(七之助)(了 空)
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金森方一(平 蔵)
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金森信近(内 匠)
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金森知近(多 門)
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金森成章(猪之助)
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金森知直(量之助)
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多賀直昌(宗 乗)
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九里歩正令(黙 々)
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九里歩 (一 蓬)「止少庵」
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安達弘道(宗 香)「司少庵」
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辰川鑛作(宗 弘)「此松庵」
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辰村米吉(宗 興)「吟風庵」
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金野直明(宗 宏)「拾玉軒」
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長田良造(宗 琢)「自在庵」
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髙川 順正(宗 順)「又新軒」

現代の宗和会継承者略歴

辰川 宗弘(此松庵宗弘)

 本名 鑛作「此松庵」と号し、金沢市中川除町に住む。
書画を得意とし、「芳翠」の号を有す。また、温斎、玉泉堂とも称し、加賀友禅界の巨匠でもあった。安達宗香没後、同門の支持を得て宗香所持の茶室「司少庵」を自邸に移築。門下第一の高弟は、金野宗宏(拾玉軒)、出島宗貞(対龍軒)、内藤宗眞(柴芳庵)である。
 晩年は特に、能登、七尾、中島方面の指導にも尽力。
茶道の指導のみならず、宗達会(画聖 俵屋宗達に因む)では小立野宝円寺に於いて、加賀の絵師達のリーダー的存在としても活躍。
(現在の宗達会は宗達忌の茶会のみとなっている。)
昭和二十年七月十五日、六十七歳で生涯を閉じた。
 金沢市十一屋墓地に眠る。

金野 宗宏(拾玉軒宗宏)

 本名 直明「拾玉軒」と号し、金沢市下本多町に住む。
茶の湯を安達宗香、辰川宗弘に師事し、陶芸を安達陶仙より学ぶ。
書画も得意とした。
 金野宗宏は、髙巖寺で金森家歴代の過去帳と金森知直(量之助)の墓が見つかったことを機に、七之助の遺徳を偲び昭和三十八年、「了空忌」を営むことを提唱、さらに、翌三十九年 流祖 金森宗和の「宗和忌」を開催。
昭和三十年 第六回百万石まつりの時に他流派宗匠とともに「兼六茶会」(後の百万石茶会)を初めて開催。
 宗和流の振興に一意専心し、数多くの茶会の席主をつとめるとともに、流祖の遺徳をしのび、宗和忌、了空忌、茶筌供養など数々の茶会を開催して、宗和流の保存、伝承に尽力した。
 多年にわたり、地域の文化の振興に寄与したとして、北國芸能賞、金沢市文化賞、石川県文化功労賞を受賞した。
平成八年五月二十日、九十二歳で生涯を閉じた。
 金沢市東香山大乗寺に眠る。

長田 宗琢(自在庵宗琢)

 本名 良造「自在庵」と号し、金沢市山の上町に在住。
 教育に携わる傍ら 金野宗宏に約25年間師事し、その間点前だけでなく茶道の心構えなど多岐にわたり学ぶ。
 平成十八年に「宗和公 三百五十回忌」、平成二十五年に「七之助(了空)三百五十回忌」を執り行う。毎年、流祖をはじめ、先人達の遺徳を偲び「宗和忌」、「了空忌」の茶会 法要を行うと共に茶筌供養を執り行う。平成二十五年 金沢野田山墓地内で金森家の墓地が発見され、以来 宗和会としてその管理にあたる。
 宗和流の指導、伝承にとりくむと共に、これまでに「百万石茶会」での献茶式や数多くの茶会の席主をつとめる。

髙川 宗順(又新軒宗順)

 令和2年 茶道宗和流宗和会理事長 本名順正「又新軒」と号し、金沢市旭町に在住。
古民家や文化財建造物の修理・設計に携わる傍ら 岩脇宗瑞、宗瑩に約25年間師事し、点前や茶会の心構えなどを学ぶ。
平成9年宗和会理事に就任、前長田理事長を補佐し数多くの茶会、宗和会の運営行う。

加賀における宗和流ゆかりの寺 栽松山髙巖寺

 髙巖寺(こうがんじ)は、金沢市芳斉(三構)にある臨済宗妙心寺派に属する古い禅寺で、茶道宗和流を加賀に伝えた金森家の当地における菩提寺です。
 金森家の墓のほか、宗和会一門で金森宗和公の碑、並びに茶筌塚を整備し毎年、春の七之助供養「了空忌」茶会や、秋の「宗和忌」茶会を執り行い、宗和や七之助、及び先人物故者を手厚く供養しております。